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アクト・オブ・キリングを見たよ

見たよ

 日曜日に京都シネマで映画「アクト・オブ・キリング」を見ました。町山智浩氏が楽しそうに猛プッシュしていた意味が分かるほどの、えげつない名作でした。普段感想文とか書評とかの類は書かないのですが、今回はちょっと書きたくなったので、他にあげる場所もないしここにアップしますね。

アクト・オブ・キリングが描く我々のグロテスクさ

 この映画は、滝の下で羽衣のような衣装を纏った数人の女性が舞っているシーンからスタートする。これは監督のオッペンハイマーが、かつてインドネシアで起こった虐殺事件の加害者に「自らの行った殺戮を自らの手で再現し、記録してはどうか」と持ちかけて制作した「映画」のワンシーンだ。アクト・オブ・キリングという映画が始まった時点では、我々観客はこの「映画」がどういうものなのか、このシーンが何を意味するものなのか、まだはっきりとは分かっていない。感じるのはせいぜいが、滝の白と草木の緑、岩の灰に対してまばゆい赤の羽衣のコントラスト、そして人為さを隠しきれない「美しさ」くらいだろう。
 オッペンハイマーは虐殺の加害者に対し、「映画」を制作する上で可能な限りの決定権を彼らに持たせることにした。それはつまり、脚本や演出、衣装やキャスティングといった要素のほぼすべてを彼ら加害者が決めるということ。50年前のインドネシアで発生し、その後の歴史に大きな影を落とすこととなった、共産主義者への大規模な虐殺事件――その加害者の立場から事件を再現し記録した、いわば「正史」を作る、ということである。
 ふつう虐殺事件の記録とは、加害者の行為を検証し、断罪する目的で作られる。それは「虐殺は悪であり、加害者は罰せられねばならない」という意識が既に存在するからだ。しかし、インドネシアでは状況が異なる。50年が経過してなお、あの虐殺が悪であったという明確な空気は醸成されていない。それどころか、加害者は国を救った英雄だ、虐殺は善であったと堂々と主張する者すら少なくない。
 そんな空気の中、アンワルは1000人近くもの共産主義者を殺害した「英雄」として、自らの殺戮を嬉々として再現していく。「最初は普通に殺していたが、それだとそこら中が血まみれになって処理が大変だ。だから針金で首を絞めるんだ。これなら血も出ないし、肉に食い込むから殺される側は針金をつかむことができず、抵抗も少ない」――かつての殺戮現場で、アンワルはそういったことを饒舌に、不可解なほど饒舌に語ってみせる。笑顔で、鼻歌を交え、ステップさえ踏みながら、おどけ混じりに殺戮を再現してのけるのだ。そして、彼はこうさえ付け加える。「この針金で殺す手法は、ギャング映画を見ていて思いついたんだ」
 この映画は大きく前半部と後半部の二部にわけることができる。加害者たちが登場しては自らの経験を語る部と、実際に殺戮を再現して「映画」を作っていく部だ。そしてこの前半部と後半部は、同じ映画でありながらまるでタッチが異なっている。前半部であれだけ饒舌に自らの殺戮を開陳していたアンワルが、「映画」の制作に入り、時には被害者側の人間をも演じていく中で、急激に饒舌さを失っていくのだ。
 その最たる象徴が、後半部も佳境にさしかかる頃に登場する「カンプン・コランの虐殺」のシーンだろう。「共産主義者ども」のレッテルを貼られた集落が民兵組織に襲撃され、村人は次々に虐殺され、家々には火が放たれる。集落を襲撃した民兵組織は現在も存在しており、それどころかまさにその組織が直々に再現に参加しているのだ。「スマトラの治安は我々が守っている」という自負の強い彼らは、「映画」の撮影中も過去の栄光と勇壮さを誇示するがごとく、過剰なまでに「殺せ!」「殺せ!」と声を張り上げる。しかしリーダーであるはずのアンワルの口からは、そのような過激な言葉は一切聞こえてこない。表情もかげっており、「映画」の撮影初期とは大違いなのだ。極めつけは、このシーンの撮影が終わった直後。オッペンハイマーの「カット!」の声が上がるや否や、再現に参加していた民兵組織の人間は歓声を上げ、両の拳を突き上げて自らの演技に満悦している。一方で、アンワルだけはうつむいたまま辺りをうろつくのみ。
 この映画には、アンワル以外にも多くの加害者が登場する。そこには誰一人として「虐殺は悪だった」と言う者はおらず、皆一様に自らの殺戮を当然のことのように語る。しかし、この映画はそういった彼らも罪の意識にさいなまれているということを、実にグロテスクに浮き彫りにしていく。カンプン・コランの虐殺ののちも「映画」の撮影は続き、とうとうアンワル自身も被害者の役を演じることになる。雨粒の打ち付ける音のみが響き渡る暗い屋内で、アンワルは拷問を受け、ついには針金を首にかけられる。このシーンの撮影後、彼はしばらく何も言えなくなっていたという。
 アンワルだけではない。他の加害者もさまざまに罪の意識を見え隠れさせていく。そこに見えるのは、彼らは決して「悪人」ではないということ。「悪をなした、普通の人間」にすぎないということだ。この映画が描いているのは、遠いインドネシアの地で起きた、我々とは異なる「悪人」の姿ではない。我々と地続きの、我々と同じ「人間」を描いている。
 映画の最終盤で、再びあのシーンが登場する。滝の下で羽衣を纏った女性が舞うシーンだ。その中に混ざってアンワルの姿も見える。そしてその横にたたずんでいるのは、ワイヤーを首にかけた人間。虐殺の被害者だ。彼は自分の首からワイヤーを外すと、代わりに金メダルを取り出し、それをアンワルの首にかけた。「――私たちを処刑して天国に送ってくれたことに、1000回の感謝を」という台詞とともに。再び書くが、「映画」の脚本や演出はほぼすべて、加害者によって決められている。「人間」のグロテスクさを描くのに、ここまでのものを私は他に知らない。

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