なぜ若狭地方は滋賀県だったのか
若狭地方が滋賀県だった時期
滋賀県庁に何度か行ったことがある。お役所の常として、本館に新館にそのまた新館に、といくつかの建物に分かれているのだが、そのうちの「新館」の入口には、滋賀県が福井県南部――嶺南地方を編入していたときの地図がでかでかと掲示されていた。滋賀県の歴史を伝える貴重な資料ということのようなのだが、どうにも心がざわついてしまう。言うなれば首相官邸の入口に、朝鮮半島や台湾を占領していた時代の地図を掲示しているようなもので、福井の人間が怒らないだろうか、と心配になってしまう。
嶺南というのは、文字通り山嶺の南側という意味で、具体的には敦賀市と南越前町とを隔てる木ノ芽峠の南側である。令国制でいう若狭国――現在でいう小浜市、三方郡、大飯郡、三方上中郡はすっぽりこの嶺南に収まるが、同じく嶺南である敦賀市は越前国となるため、嶺南すなわち若狭というのは正確ではない。ちなみに、残る木ノ芽峠の北側部分も、例によって嶺北という。
さて、そもそも滋賀県はいつ頃嶺南を編入していたのか。Wikipediaによると、編入前夜の嶺南・嶺北はその全域が、敦賀町[1]現在の敦賀市。に県庁を置く「敦賀県」の管轄下にあった。それが1876年に嶺南は滋賀県に、嶺北は石川県に編入されることとなり、1881年に福井県として滋賀・石川両県から分立する。したがって滋賀県が嶺南を編入していたのは、わずか5年足らずの期間に過ぎないらしい。
信頼性に欠けるなどと言われながらも、カジュアルな調べ物では一定の役に立つWikipediaも、編入の期間は教えてくれてもその詳細は教えてくれなかった。せいぜいが「鯖街道を通して京や近江との交流が盛んで、現在でも京都府・滋賀県とも繋がりが深い[2]嶺南 – Wikipedia、2021年7月22日 (木) 10:26版。」という周辺状況といった程度。滋賀県と関係が深かったから嶺南は滋賀県に編入されたのだろうか、といった推測は働くものの、現に存在する敦賀県をわざわざ解体してまで編入させた理由は見えてこない。
滋賀県史を紐解いてみたものの
インターネットが解決できない疑問は、書籍が解決してくれるはずだ。市立図書館に行き、滋賀県の歴史を名乗る本に手当たり次第あたってみた。しかし、期待に反してWikipedia以上の情報は出てこない。そもそも日本の歴史ならいざ知らず、滋賀県の歴史について書かれた本を求めたところで、わずかな冊数に留まるのは目に見えていた。需要と供給の関係だ。
であればと、図書館の奥の方で誰からも手に取られることなく、寂しげに鎮座している『滋賀県史』に望みを託すことにした。この本は滋賀県が編纂した「公式の歴史書」とでもいうべきものであり、大抵どの都道府県、市町村にも似たような書籍がある。ただ、いくら公式とはいっても学術機関が刊行するものではないため[3]ただし、ほぼすべての場合において、地方史を専門とする研究者の執筆ないし監修は得ている。、時にはアカデミズムの世界では否定されている見解を開陳する例もあるにはあり、公式の歴史書すなわち正史と捉えることはできない。
さておき、滋賀県史は古代編から最近世編まで全4巻に及ぶ大部であり、明治以降の歴史が書かれた最終巻だけでも550ページに達する。それだけの紙幅があれば、嶺南が編入された経緯も詳細に書いてあるだろう。期待しながら紙葉を繰り、該当箇所を探した。その結果を以下に引用しよう。
是年八月廿一日廢敦賀縣の敦賀・大飯・遠敷・三方の四郡を管治しその管轄區域は近江・若狹國の全部と越前國の一部分とになつた。
滋賀県編『滋賀縣史 第四巻 最近世[4]1972年、清文堂出版。』5~6ページ
これだけである。驚くべきことに、たったこれだけである。あろうことかその後の嶺南分離・福井県成立には触れてすらいない。嶺南編入はあまり触れたくない負の歴史なのだろうか、と勘ぐりたくなりさえする。
籠手田県令の建議書
ところで、滋賀県史にたどり着く前に、物の本で気になる記述を発見した。滋賀県から嶺南を分離するにあたって、当時の滋賀県令[5]現在でいう県知事。・籠手田安定が中央に対し、建議書を提出したのだという。その名も「若狭国及ヒ越前敦賀郡ヲ以テ福井県ニ合併セシム可カラサルノ議」であり、籠手田県令としては嶺南分離に強く反対していたことが分かる。
その建議書自体は簡単に見つけることができたが、そのまま引用しても非常に読みづらい漢語文のため、現代語に訳しつつ多少要約したものを以下に記す。
- 敦賀郡は越前国に属してはいるものの、木ノ芽峠を隔てて断絶していて、越前とは名ばかりである。それが証拠に敦賀の人間は嶺北を越前と呼ぶ。古来から冬になれば敦賀と嶺北の交通は寸断されるのに対し、敦賀と近江の場合は人流も物流も盛んで冬でも麻痺することはない。
- 若狭国の地形は近江国にぴったり貼り付いていて、全住民が1日で県庁(大津市)にたどり着ける。木ノ芽峠を間に持つ福井県に合併させると苦労するだろう。
- 若狭小浜と近江今津とを結ぶ道路があり、これを機能させるかは若狭全体の盛衰に関わる。県境で分断してしまえば昔(敦賀県時代)のようになるだろう。
- 若狭の近江との経済的結びつきも敦賀と同様である。
- 敦賀と越前武生とを結ぶ道路を開通させようという事業があるが、これも敦賀を福井県に合併してしまえば画餅に帰してしまう。
- 地理的、経済的結びつきは上に述べたとおりだが、それだけではない。滋賀県は1879年に県会を開設して以来同治一体の体をなしてきており、嶺南の利益となっている。木ノ芽峠で隔絶した福井県に合併されれば、必ず嶺北に有利で嶺南に不利な行政が敷かれる。そもそも福井県は、石川と嶺北とで文化圏も経済圏も違うのに無理やり編入したため、住民の反発が強くなって再度分県させたものである。であれば、嶺南と嶺北を合併すればどうなるだろうか。
- 1876年に敦賀県を廃止して滋賀県に編入したあと、旧敦賀県域からひとつの苦情も聞いたことがない。編入が実情に合っていたからだろう。滋賀県の行政はまだ緒に就いたところであり、様々な困難も待っている。そんな今突然福井県に合併して住民を動揺させれば、住民としても政府としても百害あって一利なしである。
- 嶺北だけでは県として分立するには小さすぎるから嶺南も合併せざるを得ないのだと言う者もいるだろうが、その主張は不見識である。かつて(高知県から1880年に)分立した徳島県は、旧石高が福井県の半分に過ぎない。それなのに淡路島はこれまで通り兵庫県とし、徳島県に編入しなかったのは、住民の利便性を考えてのことだろう。したがって福井県を設置するとしても、嶺南は滋賀県に属するのが当然である。
- 越前に県を置きながら越前国を分割して他県に属させるべきではないと言う者もいるだろうが、その主張には理がない。なぜならば紀伊は一部を分離して三重県に編入させている(現在の三重県県牟婁郡)。これも住民の利便性を考えてのことであり、そうした例は枚挙にいとまがない。
- 土地の分割合併は政府の特権であって、住民の利便性を考える必要はないと言う者もいるだろうが、それは暴論であって反論するまでもない。政府や住民の利便性を酌量して処分するのが政府の責務である。
「可カラサルノ議」自体はこれで終わりであるが、これにさらに同程度の文章量の「若狭国及ヒ越前敦賀郡ヲ以テ福井県ニ合併セシム可カラサルノ議追加」がある。こちらは「可カラサルノ議」を前提としてより具体的、ミクロな説明を加えたものであるため、訳出は省略する。ひとつだけ抜き出すと「若狭国は戦国時代から越前朝倉義景に屈することなく独立を保ってきた」という部分があり、そこまで遡るか、と驚いた。
ともあれ、「可カラサルノ議」だけで2000字に近く、さらに2000字近い「追加」があるという文章量を見ても、またその内容を見ても、籠手田県令の怒りが伝わってくる。片方の主張だけしか見ていないのでフェアではないが、籠手田県令の主張には一定の理もあるように思える。
また、「そもそも福井県は、石川と嶺北とで文化圏も経済圏も違うのに無理やり編入したため、住民の反発が強くなって再度分県させたものである」という情報が得られたのは大きな成果だろう。これも籠手田県令の視座からすればそう映っているに過ぎない可能性はあるが、少なくとも嶺北を含む石川県において何らかのごたつきがあったのは確かだと考えられる。火のない所に煙は立たない。
滋賀県史がだめなら
籠手田県令の建議書については、Wikipediaでも触れられている。
4年半後の1881年(明治14年)2月7日には、嶺南4郡と嶺北で福井県が形成された。突然このことを知らされた人々の中から遠敷郡の有志と、福井置県と同時に堺県の大阪府併合が布告される中、嶺南分割を滋賀県の京都併合への危機感と重ね合わせていた滋賀県令が、何度も嶺南4郡の滋賀県への復帰を政府に願い出たが、却下されてしまった。帰郷後、福井県設置後、初めての臨時県会への抵抗から、運動の中心人物1名、遠敷郡2名、敦賀郡1名が当選していた県会議員を辞職するなど、滋賀県への復帰を求める運動は、開始から約1年半の間、様々な形で続いた。
若狭国 – Wikipedia、2021年3月26日 (金) 10:08版
これによると、嶺南の福井県への編入に反対する声は、滋賀県側のみならず当の嶺南自体からも上がっていたらしい。当時非常に権力の大きかった県会議員の職を辞するというのは、これはただ事ではない。それであれば、当の福井県側の史書にも記述があるかもしれない。
しかし、自治体史というのは往々にしてその自治体の図書館に行かなければ読むことは叶わない。この比較的どうでもいい疑問のために福井県の図書館まで足を伸ばすのは、どうにもためらわれるものがある。国会図書館に行くという手もあるにはあるが、祝園というよく分からない場所まで移動する必要がある。大津からだと乗換がない分敦賀の方がまだ楽というものだ。
そういうわけでこの調べ物については半ば諦め、しばらくの間忘れてさえいた。しかし、思わぬところで話は再び動きだす。
大津市の市立図書館は、人口に比して立派とは言いがたい蔵書数で、小説を書くための調べ物をするには不足する面が大きい。昔住んでいた八日市市[6]現・東近江市。人口も八日市市のもので計算。は、大津市の6分の1ほどの人口しかいないにもかかわらず、大津市立図書館よりも立派な図書館を持っていた。税金を払っているのだから、これくらいは言っても許されるだろう。
そういう事情もあり、根を詰めて調べ物をするときは少し遠くの県立図書館まで行くことにしている。こちらはこちらで、蔵書の大半が書庫のため請求に時間がかかる、立地がきわめて辺鄙で足を伸ばしづらい、借りた本は県下の市立図書館でも返せるはずが大津市だけ対象外[7]正確には隣接する草津市も。、とよろしくない面も多いが、蔵書については一定充実しているし、併設喫茶店のソフトクリームが非常に美味しいのでまあ許すことにしている。
先日も、調べ物のために借りた本を返しに県立図書館まで行ったのだが、本を返してすぐ帰るのではつまらない。往復820円の交通費も泣くというものだ。そこで、前々からTwitterでも見かけていたリファレンスサービス、司書に調べ物の手伝いをしてもらうというものを利用してみることにした。何について聞くか、と考えたところ、そういえばそんなものもあったな、と嶺南の件が頭をよぎった。
リファレンスサービスはいい意味で非常にあっけなかった。「若狭地方が滋賀県に編入された経緯が知りたい」と問うとすぐに、3冊の本が差し出される。福井県史、敦賀市史、小浜市史だ。なんということか、わざわざ福井まで足を伸ばさなくても、滋賀県立図書館にあったのだ。
敦賀県廃止と分割編入の経緯
書籍に一冊一冊個性があるのと同様、自治体史にもそれぞれ個性がある。滋賀県史は戦後の刊行物にもかかわらず、権威付けのためか全編にわたって旧字旧かなであり、内容もそれほど濃くはない。一方の福井県史は、平成に入ってからの出版ということも手伝って、出典などの明記が徹底しており、かつ情報量も多い。敦賀市史や小浜市史も刊行年が比較的新しいため、福井県史に似ているが、こちらはもう少し感情のこもった筆致が見られる。
敦賀県の廃止と滋賀・石川両県への分割編入の経緯を、3冊を頼りに見ていこう。まずは福井県史から。
……足羽県[8]もともと嶺北にあった県。の敦賀県への合併が布達されると、間髪を入れずに富田厚積前足羽県権大属から併合の非を訴える建白書が政府へ提出された。「県都」は、港湾都市としての将来性に疑問のある敦賀よりも、人口稠密でかつ文化的伝統の蓄積された「閑静」な都市(福井)に置かれるべきであるとする富田の建白書は、当時横浜で発行されていた『日新真事誌』にも掲載され反響を呼んだ。
福井県編『福井県史 通史編5 近現代一[9]1994年、福井県。引用文中の出典記述は省略。』145~146ページ。
……合併後の敦賀県政が開始されると、越前七郡の地方末端行政を担当する大区長などから県庁所在地の不当を訴える声が起き始め……福井移庁願が出された。一方、これに対して、敦賀郡と若狭三郡の大区長などからはそれに反対する建白書が、政府や県へ再三提出されることになる。
しかし、福井移庁の建白書は政府の採用するところとはならず、九年八月二十一日、嶺南嶺北の対立に苦慮した敦賀県自体が消滅し、越前七郡は石川県に、敦賀郡と若狭三郡は滋賀県に編入されることになった。
嶺南が滋賀県に編入されたのは、嶺南と滋賀県の結びつきが強かったからだという推測は、どうやら外れていたらしい。もちろんそうした事情もあって滋賀県に編入されたのだろうが、そもそもは県庁所在地を巡る敦賀県内での内紛が原因だったようだ。
小浜市史はより詳細に背景を説明してくれている。
……一八七一年(明治四)七月の廃藩置県により、小浜藩は小浜県となった。さらに四ヶ月後の十一月には……敦賀県[10]この時は嶺南のみを管轄。が成立した。この時、参事以下の敦賀県職員の大半を、旧本保県[11]現在の越前市に県庁を置く、敦賀と嶺北の一部にまたがる県。敦賀県の成立により消滅。職員が占めることになり、小浜藩は実質的にも解体されることになった。……一方、敦賀県と同時に成立した足羽県……は、依然として参事以下の県職員の大部分を旧福井藩士が占めており、その実態は西南戦争まで独立王国の観を呈していた鹿児島県と似ていた。
小浜市史編纂委員会編『小浜市史 通史編 下巻[12]1998年、小浜市役所。 引用文中の出典記述は省略。 』25~26ページ。
一八七三年一月、……足羽県を合併した新しい敦賀県が発足した。新敦賀県の設置は、開港の実現よりも足羽県を従前通り牛耳っていた旧福井藩を実質的に解体するところに政府のねらいがあった。……
……新敦賀県の成立は、旧小浜藩と旧福井藩の合併という側面を持っており、とくに旧小浜藩の勢力挽回を参事藤井が支援していた。
これらのことは、旧足羽県の人々の不満と動揺を招くことになった。旧福井藩士族にとっては、旧藩の実質的解体による失職と一地方都市となったことによる城下福井の喪失感であり、大区長など地方行政の一翼を担う吏員にとっては、県庁が敦賀におかれ、事務量が数倍に上る福井が支庁とされた不便への不満であった。また地域のひとびとにとっても、足羽県の消滅は、小学校教育や「廃仏毀釈」に象徴される開化政策や土地制度の変革に対する不安と重なっていた。新敦賀県設置の二ヶ月後には越前の真宗門徒を中心とする大一揆が起こっている。
情感がこもっているというか、それは筆者の憶測なのでは……と言いたくなるような点がないではないが、ともあれ詳細である。「旧福井藩を実質的に解体するところに政府のねらいがあった」の箇所には出典が存在しないのだが、廃藩置県の目的は藩を廃止して旧士族の影響力を排除するため、というのが通説である以上、旧福井藩士が幕藩体制下から変わらず牛耳る足羽県というのは、政府にとって看過しがたいものだったのは確かだろう。
それにしても、県が消滅したことで一向一揆が起きるというのもすごいものがある。時代性というか、戦国時代から明治時代は連続しているのだなと感ぜざるを得ない。先に触れた「可カラサルノ議追加」で朝倉義景に言及しているのも、宜なるかなといったところか。
福井県史と小浜市史で十分な情報が得られたため、敦賀市史からも背景を引用するということはしないが、興味を引いた一文があったのでそこだけ引用する。
この対立は、現在の福井県における嶺南と嶺北の対立の原型ともいうべきものである。
敦賀市史編さん委員会編『敦賀市史 通史編 下巻[13]1988年、敦賀市役所。』25ページ。
青森・弘前・八戸や静岡・浜松、福島・郡山など、県内対立の存在する県というのは数あるが、福井もそうだとは知らなかった。もともと近江一国で琵琶湖を有する滋賀県は、県内での対立意識が比較的希薄[14]とはいえかつては県庁を彦根市に移す運動も存在した。であるため、そうしたことに鈍感になっていた部分もある。
滋賀県下での嶺南
続いては敦賀県が消滅したあとの、滋賀県下での嶺南の経過を見てみることにする。これについても福井県史が詳しい。
明治九年(一八七六)八月の滋賀県への嶺南四郡の編入は、越前七郡を編入した石川県とは異なり、滋賀県政にこれといった混乱をもたらさなかった。近世以来、嶺南四郡は文化や経済において上方との深い繋がりがあり、人びとも違和感をもたなかったからであろう。また、籠手田安定滋賀県令が、編入前の嶺南四郡で施行されていた敦賀県政との継続性にいくつかの点で配慮したことも大きかった。
『福井県史 通史編5 近現代一』149~150ページ。
籠手田県令は、嶺南四郡を編入した際、地方末端行政に変更を加えなかった[15]滋賀県は郡を単位とした区制、嶺南は大区小区制だった。。……警察費などの民費も「旧敦賀県ノ旧慣ニ依リ賦課」されており、……地方民会も、近江は公選議員、嶺南四郡は旧敦賀県からの旧慣である官選議員により構成されていた。また、府県会規則による最初の滋賀県会が、十二年四月に……開かれているが、敦賀・塩津間や今津・小浜間の道路修築費や小浜初等師範学校設置費が原案通り可決され、混乱もなく四〇日間で終わっている。
……嶺南四郡が滋賀県を離れて福井県に入らねばならない積極的理由はなかったといえよう。
福井県史は福井県全体の歴史を書いたもののはずなのに、「嶺南が福井に入らなければならない積極的理由はなかった」とまで言ってしまっていいのか、という気もするが、ともあれ石川県下の嶺北とは異なり、嶺南を領域に加えた滋賀県はうまくやっていたらしい。
敦賀市史や小浜市史を見ても、書きぶりは軒並み同様である。
……嶺南四郡は滋賀県にスムーズに編入された。近江国と若狭国の長い経済的・文化的交流が順調な編入を可能にしていたとともに、明治初年以来の滋賀県政の開明性も大きかった。……
『小浜市史 通史編 下巻』27~28ページ。
……一八六八年より大津県[16]現在の滋賀県南部。に出仕し、松田[17]初代滋賀県令・松田道之。開明派県令として知られる。の元で権参事・参事をつとめた籠手田もまた、県下の事情に明るく、「民情ヲ酌量シ不知不識漸次開進ノ域ニ誘導」するということを県政運営の基本方針にした、開明派の県令であったとされる。
滋賀県下において嶺南に関わる問題が噴出しなかったのは、近江と若狭の文化的経済的結びつきだけでなく、籠手田県令の統治手腕によるところも大きかったのだろう。
石川県下での嶺北
一方の石川県下での嶺北はどうだったのか。これも福井県史がリファレンスとしての役割を果たしてくれる。その名も「石川県政の混乱」という小々節だ。
明治九年(一八七六)に、内務省は二度にわたり府県の統廃合を行い、……加賀・能登を県域としていた石川県は、同年四月に新川県(越中)を、さらに八月には越前七郡を合併して、人口一八二万人、旧石高二二〇万石の日本最大の県となった。
『福井県史 通史編5 近現代一』146~147ページ。
この九年の府県統廃合の目的は、まず第一に、地租軽減(地価の百分の三が二・五となった)による歳入不足を克服するための府県経費節減にあった。第二には、旧士族が県職員を独占している旧藩域依拠の県をなくし、中央政府の地方支配を確立するためであった。……
ところが、もともと藩政以来の「陋習」が深く「浸染」し、「難治県」の一つとされていた石川県が、新川県とともに旧福井藩(親藩)の封地であった越前七郡を併合したことは、県政の運営をより困難にした。
さらに、石川県政をいっそう矛盾に満ちたものにしたのが、十一年七月の三新法(「郡区町村編制法」・「府県会規則」・「地方税規則」)の制定であった。この最初の統一的地方制度では、住民の地方自治への部分的参加が認められ、地方議会は公選議員により構成された。このことは、地域の政治的経済的要求を提出できる場ができたことを意味し、とくに府県会は中央政府の政策の施行方法や予算案をめぐって知事・県令と鋭く対立することとなる。
十二年五月の最初の石川県会において早くも、越前、加賀、能登、越中の地域的利害が噴出した。勧業、土木工事、学校、医学所などに対する予算をめぐり対立し、その運営は著しく円滑さを欠くことになる。会期はコレラ病の流行とも重なり五か月にも及び、十三年度予算案はほとんどの費目において修正が加えられた。……また、法理闘争にもとづく越前地租改正反対運動[18]温娼「越前七郡における地価修正運動」『農業史研究』36巻、2002年、49~61ページに詳しい。は、桐山純孝県令の更迭と越前七郡の地租再調査をもたらし、石川県政の大きな蹉跌となった。このような石川県政の混乱が、桐山の後任である千坂高雅県令(前内務省少書記官)をして二度にわたる分県の建言を政府へ提出せしめることとなる。
これは確かに、明々白々に混乱である。コレラ病の影響の有無という要素はあるにしても、それぞれの最初の県会が、かたや五か月にも及んで予算案も修正だらけ、かたや40日間で修正もなしというのは、非常に象徴的だといえよう。
もともと石川県が幕藩体制下から地続きになっていて、悪習に染まっていたこと、雄藩である加賀藩の流れを汲む石川県に、親藩の旧福井藩を合併させたこと、県会が各地域代表の利益誘導一色となり、機能不全に陥ったこと、地租改正反対運動のために県令が更迭されるに至ったこと。こうした中にあっては、後任の県令が嶺北分県の建言書を二度も出すというのも納得できよう。
この建言書は、敦賀市史においてその内容が詳しく紹介されている。
……建言書のなかで、千坂高雅は、三州(加賀・能登・越中)と南越(ここでは嶺北七郡のこと)とでは風土人情が異なり、河港堤防費や道路費などの負担方法に大きな差があり、管内画一の施政をしようとするときさまざまな困難が生じること、さらに議会においても三州の議員が多数を占め、少数の南越の議員が圧倒され、なにかと議会内に亀裂が生じること、殊に今回の福井に医学校を設置する件については、能登・越中の議員から福井に医学校を設置するなら、能登・越中にも設置せよと強硬な反対があり、議会は収拾がつかないまでに紛糾したことなどをあげて、南越の石川県からの分離を建言している。
『敦賀市史 通史編 下巻』28~29ページ
どこかで聞いたことがあると思えば、籠手田滋賀県令の「可カラサルノ議」に書いてあったことそのままである。風土人情が異なり、多数派と少数派とで議会が分断される……嶺北と石川の構造的問題は、とりもなおさず嶺南と嶺北の構造的問題になりかねないのだ。嶺南と嶺北の対立が現在まで続いているというのも頷ける。
嶺南・嶺北分離と福井県の成立
最後に、嶺南が滋賀県から、嶺北が石川県が分離して福井県が成立する過程を見て、筆を置くことにしよう。先述の千坂石川県令による建言書を受け、内務卿の松方正義は福井県設置の案を元老院に提出する。
この案を下付された元老院は、一月三十一日の会議で、まず、政府委員の少書記官伊東巳代治が、「南越ノ民ト加能越中ノ民」とは常にいわば犬猿の仲であり、こうした状況が続くと、県政の運営が阻害されるばかりでなく、「異日或ハ動乱ノ基」となるかもしれないので分権を行いたいと、その議案の提出理由を述べた。政府にとっては、「難治県」での分権運動が、地租改正反対運動や国会開設請願運動をいっそう刺激し、反体制運動として先鋭化することをもっとも恐れ、また分権を認めることによって、そうした潮流をなんとか食い止めようともしていた。事は急がれたようで、「本案ハ急施ヲ要スル」として、第一、第二、第三読会が休憩もはさまずに開かれて、一気呵成に全会一致で可決された。
『小浜市史 通史編 下巻』37ページ。
これでようやく合点がいった。いくら県令が建言書を出したからといって、それですぐに分県が認められるというのも考えにくい。中央政府にとっては建言書それ自体よりも、ただの地方対立が国家レベルの問題に発展してしまうことを恐れたのだ。
小浜市史はまた、なぜ石川県から分離させた福井県に嶺南をも編入させたのかについても、以下の通り記している。
この福井県新置案では、……新置に伴う関係府県の地租、人口のバランス、上申書の言葉を借りれば「彼此大小相当」にのみ配慮がなされたものであった。
『小浜市史 通史編 下巻』36ページ。
小浜市史によると、福井県設置時の一府県あたりの地租は平均109万円、人口は平均89万人である。これに対して嶺北を含む石川県は215万円、182万人といずれも倍以上の「巨大県」だった。また、滋賀県も134万円、72万人と地租に関しては全国平均を上回っている。
一方、嶺北のみを見ると地租は50万円、人口は44万人であり、嶺北単独で分県するには確かに心許ない。嶺南は地租が13万円、人口も13万人と少なく、滋賀県は嶺南を失っても地租額では依然として全国平均以上ということになる。こうした数字上の理由から、嶺北単独で一県とするのではなく、嶺南も含めて新県を設置することにしたのだという。
この後、福井県の一部となった嶺南においては、滋賀県への復帰運動が繰り広げられることとなる。これについては、県の史書よりも当事者であった市の史書にあたるのがよいだろう。
……福井県設置はすでに述べたように、基本的には石川県内部の紛糾が原因であり、直接には県統治、議会運営に自信を失った石川県令が、窮余の策として嶺北七郡の分離を建言した結果であって、敦賀・若狭の人びとがみずから望んだわけではなかった。政府のこの決定に対し、遠敷郡でまず猛烈な反対が起こり、滋賀県への復帰を要求して、土地人民引き渡しの延期願い、県会議員辞退、補欠議員選出引き延ばし、滋賀県あるいは東京への陳情などの執拗な運動が展開された。遠敷郡の運動はやがて大飯・三方・敦賀の三郡をも巻き込んで、敦賀・若狭全体に広がっていった。
『敦賀市史 通史編 下巻』41~42ページ。
情感のこもった非常にいい文章である。県令を称して「自信を失った」、建言書を「窮余の策」と言いきるのは、並々ならぬものを感じる。いわゆる「大人がキレたときに書く文章」の類であり、味わい深い。
ともあれ、猛烈な復県運動が巻き起こり、また滋賀県への「熱心な陳情に同情した[19]『敦賀市史 通史編 下巻』42ページ。」籠手田県令は、先述の「可カラサルノ議」を政府に出すことになる。これだけ大規模な復権運動が起きた経緯は、これも敦賀市史に詳しい。内容は 「可カラサルノ議」 とほぼ重複するが、あえて引用しよう。
敦賀・若狭の四郡の人びとが福井県への編入に反対し、滋賀県への復帰を望んだのは、嶺北と嶺南の人情風俗の相違、陸路は木ノ芽峠に難渋し、海路は冬から春にかけて、高波のため航海が途絶するという交通の不便さ、あるいは滋賀県時代にせっかく順調に発展してきた近江地方との経済関係が、福井県への移管で頓挫することへの危惧などの理由からであったが、同時にそこには、府県会の設置以来、地方の経営はみずからの手に委ねられているのだとする人びとの強い自負心があった。……
『敦賀市史 通史編 下巻』43ページ。
……政府が地方に対して不利な決定を行うのは、人民に対する「政府ノ義務」違反であり、一方的な政府の押しつけに対して異議を申し立てるのは「人民ノ権利」であるとして、復県を訴えたのである。
考えすぎかもしれないが、籠手田県令が朝倉義景時代の若狭国を引き合いに出した理由はここにあるのかもしれない。自主独立の気風が若狭にあるのだとすれば、それを真っ向から否定する上からの押しつけには断固として反対しなければならないからだ。
その後、復県運動は1年ほど続いたが、やがて収束する。復県運動が残したものについて、敦賀市史はこう結んでいる。
結果的には敦賀・若狭の四郡の人びとの滋賀県復帰の要求は実現しなかったが、この運動は人びとの自治意識を高め、自由民権の思想を主体的にうけとめる下地となった。
『敦賀市史 通史編 下巻』44ページ。
補足
『滋賀県史』『福井県史』『敦賀市史』『小浜市史』からの各引用文は、著作権法第32条第2項に基づき、適法に引用したものです。
脚注
1 | 現在の敦賀市。 |
---|---|
2 | 嶺南 – Wikipedia、2021年7月22日 (木) 10:26版。 |
3 | ただし、ほぼすべての場合において、地方史を専門とする研究者の執筆ないし監修は得ている。 |
4 | 1972年、清文堂出版。 |
5 | 現在でいう県知事。 |
6 | 現・東近江市。人口も八日市市のもので計算。 |
7 | 正確には隣接する草津市も。 |
8 | もともと嶺北にあった県。 |
9 | 1994年、福井県。引用文中の出典記述は省略。 |
10 | この時は嶺南のみを管轄。 |
11 | 現在の越前市に県庁を置く、敦賀と嶺北の一部にまたがる県。敦賀県の成立により消滅。 |
12 | 1998年、小浜市役所。 引用文中の出典記述は省略。 |
13 | 1988年、敦賀市役所。 |
14 | とはいえかつては県庁を彦根市に移す運動も存在した。 |
15 | 滋賀県は郡を単位とした区制、嶺南は大区小区制だった。 |
16 | 現在の滋賀県南部。 |
17 | 初代滋賀県令・松田道之。開明派県令として知られる。 |
18 | 温娼「越前七郡における地価修正運動」『農業史研究』36巻、2002年、49~61ページに詳しい。 |
19 | 『敦賀市史 通史編 下巻』42ページ。 |