魔法少女リリカルなのはDetonation感想

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注:この記事は2018年10月20日に公開したものをサルベージしたものです。

高町なのはという人間の物語でした

 魔法少女リリカルなのはDetonationを観てきました。まだ2回しか観れていないので、細かいところの見落としは多々あると思いますが、大枠の感想を書いていきたいと思います。当然、ネタバレに満ちていますので、未鑑賞でかつ今後見に行くつもりの方は、これ以上の読み進めをご遠慮ください。また、引くくらいの怪文書になってしまっているので、何でも許せる人以外も読まない方がいいと思います。

 なお、本記事に登場するキャラクターについてはすべて敬称略とさせていただきます。

 これまで数多く作られてきた魔法少女リリカルなのはシリーズは、いずれも高町なのはの物語でした。しかし、それは高町なのはが主人公であるということを意味しません。例えば無印は、高町なのはの物語でしたが、そこで語られる主人公はフェイト・テスタロッサでした。A’sも高町なのはの物語です。しかし、その主人公は八神はやてと、リインフォース(アインス)、あるいはヴォルケンリッターでした。Reflectionも高町なのはの物語です。しかしあの物語は、高町なのはではなくキリエ・フローリアンを主人公としていたと、ぼくは考えています。いわば、魔法少女リリカルなのはシリーズにおける高町なのはとは、主人公というよりも、舞台装置や世界観といった類のものだったのではないでしょうか。あるいはもっと単純に、神仏の類といっても構いません。

 僧職にある、とある方から「これは個人的な理解でしかないけれど」と前置きされた上で聞いた話です。仏教の世界に阿弥陀如来という仏がいます。物の本にはしばしば「阿弥陀如来は衆生救済を常に願っていて、そのために自らの能力を用いている」などといった描写がなされていますが、それは「仏のことをまったく分かっていない」描写である、と氏は言います。「仏典を読めば分かることなのだが」と笑いながら、彼は続けました。阿弥陀如来はもともと人間であり、確かにその時期の阿弥陀如来(人間である以上、如来ではありませんが、便宜的にこう表記します)については、仏典においてもどういうことを考え、どういうことに思い悩んだかが描かれている。しかし、如来となってからはどういった能力を備えているかの説明がなされているだけで、彼の内面に関する描写は一切ない。仏とは、そういうものなのだ、と。仏とは自らの持つ能力を用いて自らの機能を果たすだけの存在であり、なぜそういうことをするか、何のためにそういうことをするかは考えない。仏とは、機能である、と。

 これまでの魔法少女リリカルなのはシリーズの高町なのはにも、少なからずそういう面があったのではないかと僕は思います。高町なのはは、「救う」という機能を持った神だったのではないか。これまでの魔法少女リリカルなのはシリーズは、そんな高町なのはという神に救われた人々を主人公にした物語だったのではないか。だからこそ、僕は高町なのはという存在に対して、心のどこかに恐怖のような感情をほんのわずかばかり抱いていました。あまりに超人的すぎて、あまりに直線的すぎて。このまま彼女が突き進んでいくと、その先には破滅しか残っていないのではないか。例えば、StrikerSでは過去に高町なのはが墜落するというエピソードが紹介されます。あの時は助かりましたが、次は……。当然、高町なのはは神なんかではありません。彼女もれっきとした人間です。ですが、その行動原理は人間的というにはあまりにかけ離れている。人間が、神のようなことをしている。だからこそ、その先にあるであろう滅びが怖かった。

 しかし、その不安はようやく解消されました。魔法少女リリカルなのはDetonationは、人間・高町なのはの物語でした。高町なのはという人間を主人公にした、高町なのはという人間の物語。

 物語の最終盤、高町なのはは軌道上へと飛翔し、そこで精神世界に移行します。「これで満足ってことは、あなたは自分のことがそんなに好きじゃないんだね」と、幼少の頃の自分自身に問いかけられます。彼女はそれに反論せず、しかし救った人が笑ってくれるのが嬉しかったと言い、そうして「自分のことが好きじゃなくても、自分のことを好きでいてくれる人がいる。そういう人を大切にしなければ」ということに気づくのです。

 高町なのはが、心を持った人間であることが描かれた瞬間でした。彼女がなぜ他者に破滅的なまでの献身を続けられるのか、彼女がなぜ人間的と言いがたいほどにまで信念を貫けるのか。それは彼女自身の、きわめて人間的な充足のためだった。そしてその末に、自分のことを大切に思ってくれる人がいることに気づきます。自分は一人なんかじゃない。自分のことが好きじゃなくてもいい。彼女の中の孤独と焦りが消え去った瞬間でした。

 もはや高町なのははStrikerSでの墜落事故を経験しないでしょう。彼女はようやく神がかりから覚め、地に足をつけた人間となれたのですから。DetonationのあとにStrikerSは(少なくともあの通りには)起こりえないことは、Reflectionでのフェイト・T・ハラオウンの描写でも明らかでした。リンディ・ハラオウンから学んだ(と勝手に僕が思っている)回復魔法をリンディ自身にかけながら、ようやくフェイトは確固たる「母親」を手に入れました。それはとりもなおさず、「自分が何者なのか」という芯を得たことに他なりません。だからこそ彼女は、レヴィに対して「私、強いんだから」という言葉を口にします。自分の能力への自信の表れであると同時に、自分という存在への自信の表れでもあります。もはやStrikerSでジェイル・スカリエッティに揺さぶられることもないでしょう。そして今回、同じように高町なのはも、墜落してヴィータを煩悶させることもなくなった。今や彼女には、焦りはなくなったのですから。

 確かに、孤独と焦りを捨てた高町なのはは、これまでのような無茶はできなくなるかもしれません。しかし、それは彼女が「弱くなる」ことを意味しません。彼女もまた、フェイト・T・ハラオウンと同様に芯を手に入れました。焦りではなく、希望によって高町なのはは戦えるのです。Reflectionは「反射」を、Detonationは「爆発」を意味します。Reflectionでは様々な相似形やがプリズムのように反射していました(参考:Reflection感想)。そしてDetonationでは、高町なのはは心の芯という信管を得ました。音速を超える爆発によって、彼女はこれまで以上の速度で飛び立ちます。

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